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ルート66ジョプリン 映画「明日に向かって撃て」ボニー&クライドの隠れ家

ルート66 ジョプリン ミズーリ州
Joplin Missouri

ルート66 ジョプリン ミズウリ州

1839年に牧師であるハリスGジョプリンが入植したのが街の始まりで後に彼の名前が街の名前と成る。

1850年、南北戦争前に鉛が見つかったが、戦争で中断。戦後再開し、人口も増えていった。

1870年、鉛鉱山で大きなストライキが起こり、多くの鉱山労働者が出て行った。すぐに John C.Cox と Patrick Murphy がそれぞれ街を作り共に繁栄したが、1873年に合併して ジョプリン市となった。

その後鉱山の繁栄で労働者が増え、それを目当てのビジネスが沢山出来て荒れ放題と成り、「恐怖時世」と言われたほど。一方、投資家や投機家も沢山集まり、Patrick Murphry が1875年に銀行を作る。

その後亜鉛も発見、鉄道も敷かれ、町はますます発展した。

ルート66ミズーリ州

ルート66ミズーリ州

1897年、物価が高騰。ジョプリンの鉱山への需要も高まり、翌年は亜鉛鉱山史上もっとも繁栄した年となった。

1899年にはボストンの投資家グループがアメリカの亜鉛業界最大の会社「American Xinc, Lead & Smelting Company」を作り、ジョプリンは世界の鉛鉱業の中心地となる。それに伴い街も発展。

豪邸が次々と建ち、トロリーや鉄道も走っていた。第一次大戦中は鉱物材料供給で繁栄していたが、1918年に戦争が終わると、寂れていった。

ルート66ミズーリ州

ルート66ミズーリ州

1926年、ルート66 が開通すると。旅行者へのサービスビジネスが出来始め、新たに街は繁栄していく。今も ルート66 沿いには、当時をイメージできる建物が沢山残っている。

第二次世界大戦後は鉱山のほとんどが閉山。人口も減ったがルート66を旅する人達は増え、町もにぎやかになった。

1960〜1970 年にかけて、町の活性化の名の下にダウンタウンが破壊され、沢山の全盛期の建物が無くなり、そのお陰で活気ある新しい街が出来人気と成っている。

ルート66沿いの古い町並みは全盛期を彷彿とさせるThe National Register of Historic Places に登録の建物が沢山残っていて、古き良き時代の魅力あふれる街です。

ルート66 ジョプリンミズーリ州
ボニー&クライドの隠れ家
Bonnie & Clyde’s Joplin Hideout


ボニー・パーカー(1910年10月1日 ~1934年5月23日)とクライド・バロウ(1909年3月24日 ~1934年5月23日)からなる実在したカップルである。

ボニー&クライドは1930年代前半にアメリカ中西部で銀行強盗や殺人を繰り返し、ルイジアナ州で警官隊によって射殺されるまで、沢山の殺人に関与し、数え切れないほど多くの強盗を犯した。

当時のアメリカは禁酒法と世界恐慌の下にあり、その憂さを晴らすように犯罪を繰り返す彼等の事を凶悪な犯罪者であるにも拘らず、新聞も含めて英雄視する者も多かった。

後にボニー&クライドの犯罪は何度か映画化された。

ボニー&クライド

時代はアメリカ大恐慌、アメリカ・メディアを騒がせ、後世に名を残した無法者、悪名高いボニー&クライドは、ルート66があるジョプリンに沢山の傷跡を残しています。

1933年、町には悪名高きボニー&クライドのような無法者達が住み着き始め、ここを拠点にあちこちで強盗を働いていた時代です。

歴史に基づく、映画「明日に向かって撃て」で有名になったボニー&クライド。

1933年4月1日~13日までの13日間、ボニー&クライドが潜伏していたアパートが今は改装され、長期滞在のアパートとして貸し出されている。

1933年、ルート66ジョップリンを走る7番ストリートに位置している。

二人は、警戒中のバイクに乗った新人警官に追跡されるが、逆に彼を拉致、愛車フォードB400で安全な逃げ道を聞いたと言う。逃げ仰せる事が出来ると彼を解放し、自分たちの写真を渡したと記録に残っています。

ボニー&クライドは仲間と共にジョプリンに隠れ家のアパートを借りていました。

警察官に踏み込まれ壮絶な撃ち合いが行われた事でも知られ、1967年公開の映画「俺たちに明日はない(ボニー&クライド)」でも見せ場のアクション・シーンとして描かれています。

撃ち合いの際、警察官の拳銃から放たれた銃弾の痕が、今でも残っているのが当時の生々しい事件が印象的です。

きれいに修復されたボニー&クライドが隠れ処にしていたアパート撃ち合いの際に出来た弾痕はちゃんと残されたままシャッターをブロックしていた。

無人のパトカーは、クライドたちに押しのけられると、彼らに撃たれ倒れていた警察官を轢きながら、この坂を転げ落ちたと言う。

ボニーとクライド達の犯行を警察は黙って見過ごすはずもなく、常に逃げ回る日々が続くようになっていた。

ボニーは逃走中の自動車事故で火傷を負い、警察との銃撃戦でクライドと兄のバックは重傷を負った。ブランシェは警察に捕まり、バックは傷が元で逃亡中に死亡。

バロウ・ギャングのメンバーも逮捕者が相次いでいった。

仲間を次々失いながらも逃げ続けていたボニーとクライドだったが、1934年5月23日、ルイジアナ州ビヤンヴィル郡アーケディアの寂れた道路を1934年式フォードV8に乗って走行中、

行方の情報を掴んで待ち伏せしていたテキサス・レンジャー4名およびルイジアナ州警察の警官2名から、短機関銃で150発以上もの連射を受けた。

ボニーとクライドは車で逃げ去ろうとしたが、車体を貫通してきた80発余りの銃弾を浴びて死亡。

車内からは軍の兵器庫からの盗品であるブローニングM1918自動小銃をはじめ、ショットガン、大型拳銃など、殺傷力の高い強力な銃器類が多数発見された。

二人の遺体はダラスにそれぞれ別に埋葬されている。

銃撃で蜂の巣にされたフォードV8と、クライドが最後に着ていたシャツは、ネバダ州プリムにあるプリム・バレー・リゾートホテルで2009年から公開展示されている。


Address 3347 1/2 Oak Ridge Dr. Joplin

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