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ルート66の父 サイラス・アベリー ルート66の歴史

ルート66の父 サイラス・アベリー
ルート66の歴史
Route66 History

ルート66ガリーナ

ルート66の歴史

ルート66の設置以前から、ミズーリ州内、セントルイスとスプリングフィールドの間にはオセージ・インディアン・トレイルと呼ばれるインディアンが使っていた古い道が通っていた。

1800年代初頭、電報線がこの道に沿って引かれると、古い道はワイヤー・ロードと呼ばれた、電報線そのものはスプリングフィールドよりもさらに南、アーカンソー州フォートスミスまで引かれた。

後に、この道はオールド・ワイヤー・ロードと呼ばれるようになった。1922年、古い道はミズーリ州道14号となった。

州道はセントルイス・ジョプリン間500kmを結び、スプリングフィールドを経由し、ミズーリ州を東西に横断していた。この道はオザーク・トレイルでもあった。

旧ミズーリ州道14号線こそが、後に「ルート66」と呼ばれ、アメリカ合衆国の歴史に残る国道ルート66へとなる道であった。

ルート66の父 サイラス・アベリー
サイラス・アベリーは、ペンシルベニア州スティーブンスビルで生まれ。

1902年にオクラホマ州タルサで不動産会社と石炭会社、石油関連の事業で成功し、経済的繁栄をもたらす為に、不毛の田舎の土地に高速道路を開発する事に情熱を燃やした。

アベリーはミズーリ州で行われているグッドロード運動に感銘を受け、オクラホマグッドロード協会に参加し、州間高速道路のシステムが都市と州の繁栄に役立つことに気づいた。

ルート66誕生
アメリカで初めて国道システムの設置が提唱されたのは1923年のことである。ルート66は、1926年にアメリカ初の大陸横断道路の1つとして創設された。


南北方向に走る高速道路の番号は奇数で北から南にかけて番号が増える
東西方向に走るものは偶数で東から西にかけて番号が増えるとする事が国の決まりでした。

東海岸沿いを走る国道が国道1号線、西海岸沿いを走る国道が国道101号線、カナダ国境沿いを走る国道が国道2号線、フロリダとテキサスを結ぶ路線が国道90号線です。

その間のシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道は国道60号線とすることが提案に盛り込まれていたが、国道60号線はバージニアビーチとスプリングフィールド、国道62号線はシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道として定める事で決定していた。

ルート66タルサ オクラホマ州

ルート66サイラアベリーーマーカー タルサ オクラホマ州

だが、アメリカ南西部を東西に貫くシカゴとロサンゼルスを結ぶこの国道は、62よりも覚えやすく、言いやすく、聞きやすいという理由でゾロ目の番号66を選択した。

これはロサンゼルスからニューヨークまで大陸を横断するもので、シカゴまではルート66を走るルートになった

ウィル・ロジャースを含む著名人たちが沿道に応援に駆けつけるなど、プロモーションは成功を収めた。同協会は1976年に解散するまで、沿道の産業界側の窓口としての役割を果たした。

1930年代には、土壌流出によりカンザス・オクラホマ・テキサス各州からカリフォルニア州へ移住する農家が西へと向かうための道としての役割を担った。この様子をジョン・スタインベックが怒りの葡萄で描いている。

怒りの葡萄 ジョン・スタインベック

怒りの葡萄 の作者 ジョン・スタインベック

大恐慌時代には、この国道の存在は沿道の住民に安心感を与えた。小さな町村を縫うように走り、交通量も増加の一途をたどっていたため、沿道には各種商店やレストランなどビジネスを起こす機会にあふれていた。

当時は、他の多くの国道と同じように、殆どは、未舗装の埃道であったが、ルート66協会の努力により、1938年にルート66は全米の国道で初めてとなる舗装がなされた。

血まみれのルート66と呼ばれるような危険な場所もあったが、ルートの変更などにより次第に危険なカーブがルート上から取り除かれていった。

しかし、アリゾナ州のブラック・マウンテン山地を越える1ヶ所だけは1953年までヘアピンカーブの連続する曲がりくねった道として残った。それでもルート66は人気の高い道路であり続けた。


第二次世界大戦中

カリフォルニア州で軍需産業が発達し、西への人口の動きはさらに加速した。そうした状況下で、ルート66は軍用品の運搬路としての役割を果たした

1950年代
ルート66の主な通行者はロサンゼルスへのバカンス客へと取って代わられた
。観光需要の高まりにより、沿道にはモーテルや各種ショップが建ち並ぶようになった。

ルート沿道ではドライブスルーや、マクドナルドなど、ファーストフード、ホリデーインを初めモーテル産業も生まれた。ルート66沿道の変化は、「ルート66」を単なる道路ではなく、アメリカ近代文化の基礎となった。

ルート66の衰退
ルート66の衰退への道は1956年、ドワイト・アイゼンハワー大統領が連邦補助高速道路法に調印したことによって始まった。

アイゼンハワーが、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においてアウトバーンを目にした時、アメリカでも高速道路網を建設を計画し、法律を成立させた。

廃線後、ルート66は、州間高速道路を補完する通勤道路となったが、ルート66沿道の多くの町のモーテル、ダイナー、ガスステーションは、衰退しゴーストタウン化し、1985年、ルート66は地図から消滅した。


ルートの復活
1990年、ルート66を国家的保護運動が始まり、アリゾナ州とミズーリ州でルート66協会が発足し、1990年、ミズーリ州政府は州内のルート66を州の歴史的街道に指定すると宣言した。

最初のHistoric Route 66の標識はミズーリ州のスプリングフィールドカーニー通り(Kearney Street)上、グレンストーン通り(Glenstone Avenue)との交差点に設置された。

オリジナルの標識は現在ではミズーリ州にあるユリーカの近くに位置するルート66記念州立公園に移設されている。

他の州も次々とルート66協会を発足させ、ミズーリ州に続いた。

アリゾナ州を通る部分では、ルート66は国の史跡に指定され、ロサンゼルス都市圏のアロヨ・セコ公園道路とニューメキシコ州を通る部分は国指定景観街道に指定された。

Cyrus Avery Centennial Plaza
Southwest Blvd, Tulsa, OK 74127

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