カリフォルニア州 ディズニーランド
カーズランドがルート66が舞台
アメリカのカリフォルニア州アナハイムに1955年にオープンした最初に建設されたディズニーランド近くにはエンジェルスの本拠地であるエンゼル スタジアムオブ アナハイムがある。
1975年、アメリカを国賓として訪問した昭和天皇と皇后も訪れた他、ジャワハルラール・ネルーやモハンマド・レザー・パフラヴィー等、ロサンゼルスを訪れた各国の王族や首脳が数多く訪れている。
ディズニーランドの歴史
ウォルト・ディズニーは、遊園地で楽しいのは子どもだけで大人にはベンチ位しか居場所がなかった1923年の体験から彼の夢であった、大人と子どもが楽しめる娯楽施設の建設を計画した。
ディズニーは、1950年にオークランドに作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」と1843年デンマークに作られた遊園地「チボリ公園」を参考にディズニーランドの構想を膨らませた。
最初の計画では、カリフォルニア州のディズニー社のスタジオの隣に32,000 m²の土地を取得し、蒸気鉄道をメインとしたパークを建設する予定でディズニー社の社員の娯楽施設が元々の目的だった。
スタンフォード大学の研究員の助言により、ディズニーは計画中の遊園地の貯めに、初めの計画の22倍に相当する730,000m2の用地をアナハイムで取得した。
ロサンジェルス郊外のアナハイムは元々は、オレンジ畑とクルミ畑であったが、一年を通して好天に恵まれ、高速道路5号線の建設が予定され、将来の発展と交通の便が見込まれる土地であったのが決め手になり購入した。
ウォルト・ディズニーの生い立ち
1901年12月5日、ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子でシカゴで生まれた。
「ミッキーマウス」の生みの親であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは350億ドルの収入を持つ国際的な大企業に発展した。
ウォルトはミッキーの産みの親ではない?
ミッキーマウスのキャラデザインは実はアイワークスが産んだもので、厳密に言うと「ウォルトはミッキーの産みの親ではない」という説もある。
当時はアニメ制作はウォルトは監督や演出を、アイワークスが作画を、という風にそれぞれの才能によって役割を分担し「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」が、ミッキーの性格などのキャラクターはウォルトの才能です。
ミッキーの名前は当初「モーティマー」とされる予定でしたが、ウォルトの妻リリアン・ディズニーのアイディアで「ミッキー・マウス」と変更されました。
モーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられ。
一族はアイルランドからの移民であり、姓の「ディズニー」は、フランスのノルマンディ地方のカルヴァドス県のイズニーから11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直された。
父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。
しかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。
しかし父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して数年後に家族を連れて同地を去った。
イライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛けていたが、
1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。
ディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。アルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともある。
後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。
少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。
学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。
カーズランド
アメリカのカリフォルニア州のディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーにある。ピクサー・アニメーション・スタジオ製作の映画カーズをモデルにしている。
カーズランドの計画は、映画のカーズが公開された2006年に始まり、2007年に始まったディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーを改装する計画の目玉として建設する事が決定された。
2009年に建設が始まり、2012年6月15日にオープンした。映画の舞台であるラジエーター・スプリングスの街並みを再現した。
カーズとスティーブ・ジョブズ
ピクサーの制作、ブエナ・ビスタ・ピクチャーズの配給により、2006年6月9日に公開された長編アニメーション映画作品。第64回ゴールデングローブ賞アニメーション映画賞受賞。
2001年より制作開始され、当初は「Route 66」というタイトルで制作されていたが、1960年代に同名のテレビドラマ「ルート66」Route 66があったことから、作品名を「カーズ」に変更した。
配給はディズニー。ディズニー・ピクサー間の契約とその契約更新の破綻に伴い、ディズニー配給としては最後のピクサー制作作品になる予定であったが、ディズニーがピクサーを買収し事態は回避された。
公開までの4年間、スティーブ・ジョブズはピクサーに5000万ドルを投資しており、「こんなに金がかかるとは思っていなかった」と告白している。
しかし、トイ・ストーリー公開直後に、ピクサーは株式を上場、またもジョブズは多額の資産を手に入れる事に成った。
2006年5月5日、ディズニーはピクサーを買収し、同社はディズニーの完全子会社となった。
また、ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時に、ディズニーの役員に就任した。
ルート66
アメリカのイリノイ州シカゴから西部のカリフォルニア州サンタモニカを結ぶ8州、全長3755kmのアメリカ初の大陸横断国道です。
1926年に指定され、インターステート・フリーウェイの発達によりその役目を終え、1985年に廃線と成った。
ルート66は、アメリカ大陸を横断し、アメリカ西部の発展を促進した重要な道でした。
その為、映画や小説、音楽などの中に多く登場し、今なおアメリカのポップ・カルチャーの題材にされてる。
アメリカ人の誇りであり、アメリカ文化の根なのです。世界中の方々の憧れの道ルート66は永遠です。
ルート66映画等
映画(イジーライダー 1969年、キャノンボール 1981年、レインマン 1988年、アンタッチャブル 1987年、ブルースブラザース 1980年、ハンター 1980年、ディスニーカーズ 2006年、山下智久 2012年)、
小説(怒りの葡萄 1940年)や音楽(ゲット・ユア・キックス・オン・ルート66、ルート66のテーマソング、キャデラック・ランチ、テイク・イット・イージー、
ボーン・ トゥ・ビ・ワイルド、コーリング・ユー)などの中に登場し、アメリカのポップ・カルチャー舞台に成っている。