アル・カポネの墓シカゴ
Alphonse Capone Grave
アメリカの移民問題や禁酒法が生んだ「暗黒街の帝王」としてアル・カポネ
当時26歳、1925年から1932年までシカゴの夜の世界を支配し、民衆を魅了したアンチヒーローの時代にアメリカ大陸横断ルート66が誕生した。アル・カポネ1899年1月17日 ~1947年1月25日生まれ。世界的に有名なアメリカのギャング。
禁酒法時代に、シカゴで高級ホテルを住まい兼事務所にしてそこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し、犯罪組織を統合近代化していった。
身長は179cm、当時としては大柄であった。顔に傷があり「スカーフェイス」というニックネームがあった。しかし、本人はこの呼び名を嫌っていた為、本人の前で呼ぶ者はいなかった。
1929年2月14日「聖バレンタインデーの虐殺」では、偽警官に分した部下が対立したギャング組織6人と通行人1人の7人を処刑し、これによってカポネは社会の敵と認定された。
1930年、批判をかわすため、シカゴにて1日に3度の無料給食を提供する慈善事業を開始し、イメージアップに成功する。
1931年、32歳の時に脱税で検挙・収監され、8年間の監獄生活の後、1939年、40歳の時に釈放されたが、神経梅毒に成り8年後の1947年1月25日に病死した。ニューヨーク・タイムズは「悪夢の終わり」と祝った。
墓所はシカゴの郊外だが、次々と墓参者が訪れていた。アンチ・ヒーローとしての人気は現在でも健在。
「他人が汗水たらして稼いだ金を価値のない株に変える悪徳銀行家は、家族を養う為に盗みを働く気の毒な奴より、よっぽど刑務所行きの資格がある」カポネは言っている。
カポーンの名前が刻まれた二つの墓石
1、シカゴの南 マウント・オリベット
回りを圧するかのように大きく直立した、しかも墓地では珍しい真っ黒の御影石です。イタリア語で刻まれているのは父親ガブリエルと3番目の兄サルバトーレの名。
二人の写真が入っていたのでしょう?今は削り取られて白い跡が残っているだけ。その下に、アル・カポーンの名前が刻まれている。
1947年、48歳で死んだアル・カポーンの遺体がフロリダから移されてきて、ここに埋葬されたが、観光客がつめかけて、墓を荒らしたり、この大きな御影石を倒したりするので、
1952年、母親テレサが死んだ時に、3人一緒にマウント・カーメル墓地に移された。
2、マウント・カーメル墓地
シカゴの西、ヒルサイドにあるマウント・カーメル墓地は、一族の墓は、カポネだらけで大きな個人の霊廟が道の両側にたち並ぶ墓地の中で、カポーン家の墓はつつましやかなものです。
家族の結束の固いイタリア系家族のこと、死後も父母のもとに集合したのは、男7人、女2人の9人兄弟の内、兄1人、弟3人、妹1人、そしてアル・カポーンの6人です。どうやらカポーンの名前で苦労し、嫌になって、世間から身を隠してしまった兄弟もいるようです。
イタリア生まれの長兄などは、なんと大西部ネブラスカで、弟に対抗するかのように禁酒法取締官に成り、人生を終えたらしい。
アル・カポーンの妻、メイがまだ10代だったアル・カポーンとニューヨークで知り合い「できちゃった婚」で結婚で、イタリア系とは反目したアイルランド系の年上の女です。マウント・カーメル墓地にメイの墓石はありません。
メイは、夫の死後40年近くを生き、1986年4月、1928年から別居して移り住んでいたフロリダの老人ホームで亡く成っている。
Mount Carmel Cemetery,
Hillside, Cook County, Illinois, USA Plot: Section 35