ルート66 アッシュフォーク アリゾナ州
Ash Fork Arizona
アッシュフォークアリゾナ州 ヤパパイ・カウンティーに位置し 標高1573m、人口は457人。
ルート66の距離は約15.4kmの小さなの町で、2006年ディズニーピクサー映画カーズ、1992年映画「ユニバーサル·ソルジャー」
1947年映画「ダークパッセージ」主演ハンフリー·ボガートやローレンバコールの ハリウッド映画等のロケ地に使用された。
町の西にオフロード約16kmの位置にある大聖堂洞窟は「悪魔の穴」と呼ばれ、深さは約84mあるが現在閉鎖されている。
アッシュフォークの北に約24kmは、最初に連邦政府が資金を提供した高速道路、ビールロードがある。
アッシュフォークからグランドキャニオンへは車で約1時間30分にあります。
アッシュフォークと隣町セリグマンの間には、ルート66の最長距離15.4kmのクロークトンロードがある。
アッシュフォークの歴史
アッシュ・フォークは、町の中や周辺に石積みや石の庭が多数ある事から「世界のフラッグストン・キャピタル」と呼ばれている。
コミュニティは、1882年10月に後にアメリカ大陸横断、サンタフェ鉄道(アチソン・トピーカ・サンタフェ鉄道)が開通し1883年、鉄道総監F.W.スミスによって設立されました。
最初の公式郵便局は1883年4月12日に設立され、ヘンリー・W・クラインンが最初の郵便局長を務めた。
1885年に制御不能な火災に続いて、アッシュ・フォークの町全体は1893年に大火災があったが、鉄道路線の反対側で再建され今日も続いています。
1907年にフレデ・ハーベイ・カンパニーによって運営されている大型ホテル「 ハーベイ・ハウス ・エスカランテ」建設されたが、1948年に閉鎖された。
ルート66は1950年代に町の経済繁栄を提供したが、町を分割するI-40の高速道路建設は町の繁華街、店舗、歩道、そして住宅街の多くが破壊された。
1960年サンタフェ鉄道は主要路線を変更した。
町の経済はさらに悪化し、町の人達は町から離れることを余儀なくされ人口は半分に減った。
1977年11月20日ビッグファイアとして知られている大きな火災は、ダウンタウンのビジネスの殆どを破壊し地域社会を荒廃させた。
メインストリートであるパークアベニューに沿って、オアシスラウンジアンドランチハウスカフェ等、町の限られた商業施設がありアッシュフォーク郵便局も健在です。
エスカランテホテル ハービィー・ハウス
Escalante Hotel&Train Staton
1907年から第二次世界大戦の終わりまでの全盛期に、エスカランテ・ホテル はアリゾナ州で最もエレガントな有名なホテルでした。
アシュフォークの町は1882年に大西洋と太平洋鉄道が後にサンタフェに成った時に設立された。東海岸と西海岸をつなぐ5つの大陸間鉄道の路線一つであった。
1890年代には、サンタフェ鉄道がプレスコット、ウィッケンブルク、フェニックスの南に支線を築いた時、
街は重要なジャンクションに成り、アリゾナ州中部と南部のアリゾナ州北部への唯一の鉄道路線でした。
1876年フレッド・ハービィーはサンタフェ鉄道線に沿って160kmの間隔でエレガントなスペイン風のレストランホテルをオープンした。
アッシュ・フォークの最初のハービィー・ハウスは、パーラーハウスやサルーンとポスト・テレグラフ・ストアがあり、トラックの北側に位置する木造の構造物でした。
1905年6月17日、火災により、町の中心部にある鉄道駅&ホテルのレストランとウォータータワーが破壊され、ハービィー・ハウスのキッチンだけで2万ドル相当の損害を出した。
新しいエスカランテ・ホテル
鉄道関係者は、鉄鋼とコンクリートの新しいハービィーハウスをオリジナルよりも優れたものにする計画をしたが、住民は新しい建物が古い建物の西から152mに移設する事に困惑した。
1776年にアリゾナに旅した18世紀スペインのパドヴァー探検家、シルベストレ・エスカランテの 名前を冠し た豪華な エスカランテ・ホテルが設置された。
駅舎のエスカランテの名前はハービィーの伝統を守り、スペインの探検家の名前から付けられた。
1907年3月に115,000ドルの資金をかけオープンした。L型の建物で美しいクリスタルのシャンデリア照明のダイニングルームを備えた。
シルバー、リネンテーブルクロス、クリスタルをテーブルに設定した。
ゲストはドレスコードがあり、軽装でダイニングルームに入る事は許されませんでした。
豪華な建物の正面には広いバルコニーとレンガの歩道があり、東側にはサボテンの庭が設置され、噴水や花が美しく飾られた。
レストランは新聞スタンド、古物商、理髪店があり、最高のハービィーハウスとして絶賛された。
エスカランテ・ホテルに は、電話、温水および冷水、電気ライト、バス、蒸気暖房など、東部の都市にあるファーストクラスのホテルのすべての贅沢と便利さがあった。
ハービィー・ガール
Harvey Girl
18歳から30歳の若い魅力的でインテリジェントで健康な女性を採用した。
ハービィーは毎月17ドルの良い賃金を支払い、自由に使用出来る部屋を提供しました。
彼女らは、平日10時30分と土曜日11時30分には就寝が義務付けられていた。
鉄道会社の若者やカウボーイ達が女性を目当てにやって来るのを防ぐ為の寮母がいた。
又、女性たちは、1年間は結婚しない事を条件に契約し署名させられた。
それでも西部に行き、ハービィー・ガールとして働きたい応募者が殺到していた。
故郷から離れたい女性や結婚ロマン持った若い女性にとってハービィーの仕事は夢でした。
大陸横断ルート66が開通し、鉄道時代から車社会に時代は変わり経営が悪化した。
1951年にホテル運営する事が出来ず閉店し2年後には、レストランも閉店した。
その後、歴史あるホテルを救う為の地元住民の努力にも関わらず、エスカランテ は1968年に解体された。
サンタフェ鉄道
Santa Fe Railways
アメリカの中南西部を運行した鉄道で正式名称はアチソン・トピーカ・サンタフェ鉄道、アメリカで1859年2月に最初に路線特許を取得した1995年に買収された大きな鉄道会社。
当初の東側の終点はトピカの北東にあるアッチソンから名前が付けられた。カンザス準州が州に昇格した2年後の1863年5月3日に、創業者の野望を表現するアッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道 と改称した。
鉄道は1868年10月30日にトピカで起工され、西へ向かって建設を開始した。
鉄道会社の名前には、ニューメキシコ州の州都であるサンタフェが含まれているが、地形が線路を敷くには険しかった事もあり、鉄道の本線がサンタフェを通過する事は一度もなかった。
サンタフェへは、ラミーからの支線によって鉄道が通った。
1859年カンザス州で設立が承認され、1868年トピーカを起点に建設が始まり、ニューメキシコ州のサンタフェを支線で結び、1887年太平洋岸のカリフォルニア州ロサンゼルスに達した。
鉄道の収益性を改善する為に、サンタフェ鉄道は不動産事務所を設立し、議会によって与えられた土地供与の権利で取得した土地を農場用に売却した。
こうした農場が、サンタフェ鉄道を利用する貨物と旅客の需要を生み出す事に成った。
最難関は、ロッキー山脈中の数多くの峠である。西部ではメキシコ国境近くのテキサス州エルパソから太平洋岸のカリフォルニア州サンディエゴまで延長された。
ペン・セントラル鉄道とバーリントン・ノーザン鉄道が出来るまで、アメリカ最長の鉄道であった。
全米鉄道旅客輸送公社(アムトラック)が旅客部門を引き受け、シカゴ~カンザスシティ~ロサンゼルス間を南西特別列車が、
シカゴ―ヒューストン間をロウン・スター テキサス列車が、西岸ではロサンゼルス―サンディエゴ間を列車が走った。
1995年バーリントン・ノーザン鉄道に買収され、バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道 2005年に BNSF鉄道に改称された。