ルート66ピーチスプリングス アリゾナ州
Route66 Peach Springs Arizona
ルート66ピーチスプリングスは、アリゾナ州北西部のモハベ郡の西に位置する、ワラパイ族のインディアン居留地(リザベーション)の町。標高1457 m 人口1090人
ピーチスプリングスは、ワラパイ族の独立国(治外法権)で、ワラパイ・インディアン保護区にあります。アリゾナ州の北西部には約1万人の、ハバスーパイ族とワラパイ族がここに住んでいました。
ピーチスプリングスの名前
ピーチスプリングスの名前は、カリフォルニア州サンバーナーディーノからやってきた、18世紀のスペイン人宣教師によって植えられた桃の木に由来していると言われています。
ピーチスプリングスの歴史的
ワラパイ族は農耕民族で、トウモロコシ、豆、メロン、カボチャを栽培していました。彼らは、枝とジュニパー樹皮のあるタシェで建てられたドーム型の家に住んでいました。
1776年6月15日に東のホピ族の村に探検している際にキャンプしたフランシスコ会の宣教師であるフランシスコガルセス神父によってピーチスプリングスを記録しています。
彼らは泉を見つけて、それらをポゾスデサンバジリオ、つまり聖バジルの井戸と呼びました。
1820年代にメキシコの毛皮の罠猟師によって再発見され、1821年にスペインから独立した後、メキシコに渡されました。
メキシコは、1846年~1848年の米墨戦争で敗北した後、この地域をアメリカに譲渡しました。
1857年、米国政府はエドワード「ネッド」フィッツジェラルドビール中尉を派遣し、フォートから幌馬車隊のルートを調査し、開通させ、ピーチスプリングスを通り抜けました。
ワラパイ族は白人と戦ったが、メリウィティカ・キャニオンで飢え、アリゾナ州パーカーの南にあるラパスに強制送還された後、1874年に戦争に敗北した。米国政府は1883年に部族居留地を設立しました。
ピーチスプリングスの鉄道
その間、入植者はビールのトレイルに沿ってカリフォルニアに流れ込み、アトランティック&パシフィック鉄道、後にアッチソントピカ鉄道とサンタフェ鉄道が線路を敷きました。
鉄道は、蒸気機関車を動かすのに必要な水を提供するため、ピーチスプリングスに駅を設置し、「ハーベイハウス」ホテルを建設しました。郵便局は、1887年にオープンした。
ルート66アリゾナ州
ナショナル・オールドトレイルロードは1910年代に建設され、これにより車で観光客が町に戻ってきました。
1926年にナショナルオールドトレイルズハイウェイがルート66の一部になり交通量は急増しました。
1929年の世界大恐慌は観光業に打撃を与えたが、第二次世界大戦後に交通量が再び増加しました。
1979年、I-40はキングマンとセリグマンの間のルート66の全区間を迂回し町は衰退しました。
ルート66は、アリゾナ州の全米道路およびシーニック・バイ・ウェイに登録されました。
ピーチスプリングスには、ジョンオスターマンシェルステーションとピーチスプリングストレーディングポストの2つの歴史的なルート66の建物があります。
ジョン・オスターマン・シェルステーションは、国家歴史登録財に登録されています。
オスターマンサービスステーションは、ジョン・オスターマンが1927年に建てたと言う人もいれば、兄のオスカーが1932年に建てたと言う人もいます。
兄のオスカーはその隣にピーチスプリングスにモーテルを建てました。
ジョン・オスターマンは1914年にドイツ船の船員でしたが、第一次世界大戦の勃発後、メキシコ太平洋岸に拘束されました。彼は抑留されたが、なんとか脱出してアメリカに入国した。
1926年に道路はルート66になり、より多くの交通量が店を駆け巡り、ビジネスを後押ししました。
1928年に彼は木造の店を取り壊し、現在の石造りの建物をセシル・デイビスによって建てました。そのスタイルは、石の壁、壁から突き出たポンデローサマツの梁、ラージの煙突、高いファサードを備えたプエブロ復活建築です。
1929年、彼はピーチスプリングスに行き、そこでナショナルオールドトレイルズロードにガソリンスタンドを開設しました。
1932年に高速道路が再調整されたため、テキサス州サンアントニオのエルアラモ伝道所に似せて建設した新しいサービスステーションを開設しました。2012年には史跡に登録されました。
E.カーペンターは1917年に最初の交易所を開設、その後、1924年にパートナーのアンセルテイラーが買収し、インディアンに物資を販売し、手工芸品を購入しました。
元の建物は、ナショナルオールドトレイルズロードでガソリンを販売していた木造の店でしたが、1950年にフアラパイ族に買収されました。
1978年にI-40が町を迂回したときに事業が崩壊した。
ワラパイ族 Hualapai
連邦政府が認めたインディアン部族で、「背の高い松の人々」を意味します。
ワラパイ族保護区は、1883年に制定され、ココニノ、ヤバパイ、モハーベの各郡にまたがる100万エーカーをカバーしています。
ウエスト・グランドキャニオンに隣接し、1621人の住民が住んでおり、その内1353人が部族のメンバーです。さらに1000人のフアラパイ族が居留地に住んでいます。
グランドキャニオン・ウエストから約88kmも離れたルート66にある、ピーチスプリングスに住んでいる。
グランドキャニオン・ウエストに位置しスカイウォークが居住区内にある、その面積は約 4100平方km。
ワラパイ族の地
ワラパイ族保留地の南端に位置する保留地ピーチ・スプリングスが、ワラパイ族の町がある。
ピーチスプリングの町の殆どの住民はワラパイ族の人々で約1400人でこの町に居住している。
ワラパイ族の保留地は、アリゾナ州の北西部を北東から南西に向かって流れるコロラド川の南岸に沿って広がる、グランドキャニオンの西の端に位置している。
100万エーカーに渡る土地は1883年にアメリカ政府によって保留地として定められたものだが、ワラパイ族はかつてはその10倍ほどの大渓谷南岸全域を含む広い地域に居住していた。
ワラパイは、言語学的にはカリフォルニア州南部からメキシコ北部の太平洋岸沿いの地域からアリゾナ州西部にまたがって分布するユーマ語族の一つ。
すぐ東に保留地をもつハバスーパイ族と、南のヤバパイ族との言語的関係はとくに近く、前者とは95%、後者とも85%で同じ系列の種族である。
南方に位置するユーマ語族であるが、実は、北はオレゴン州にまで及ぶ太平洋岸に点々と存在する様々な小数語族と同じ「ホカ系」という言語系統に属する。
ワラパイ族の人々は、アメリカ大陸の他の先住民にもよくみられる選民思想的な信奉にもとずき、自分たちのことを「パイ=人間」と呼んでいた。
口承伝説として伝えられる創造神話によると、最初のワラパイ人は創造者によってコロラド川べりにおかれた植物の束からつくられ、周辺民族はその元祖ワラパイ族 から追放されたり、移住していった人々だという。
片道約99kmの道のりは未舗装の道で悪路の為、しばしば車が故障を起こし、数時間夜道を歩く事ある。州と同格の自治権が与えられている、州ではなく国だと言う部族も多い。
グランドキャニオン・ウエスト地区一帯を統治するワラパイ国家の「国境線」 的な場所に立つ標識でもネイションと書かれている。アメリカ合衆国の一般の州とは一線を画した特別な区域である。
ワラパイ族は国家としの独自の警察がある。規模が小さい為 人口約2500人、小さな事故やトラブルはワラパイ族の警察が対応しているが、それ以外はアリゾナ州のモハビ郡の警察と提携し治安を維持している。
殺人事件のような大きな事件に関してはアメリカ合衆国の連邦警察 FBI が関与する。すぐ横には、ハバスパイのインディアン居留地区が谷底にある。
ハバスーパイ族とハバスの滝 アリゾナ州
Havasu Falls Arizona
グランドキャニオンのオアシスハバス・キャニオンのハバスの滝は、コロラド川の支流ハバスクリーク沿いにありハバスパイ族の居留地区で彼らの独自の言語を持っている。
ハバスパイとは、インディアン語で「青緑色に光輝く水のある地」という意味。その名の通り、石灰石を含むためにサファイアブルー色をしている、これは石灰石の含有率が高い為です。ハバス滝は、清流が魅力的な桃源郷です。
ハバスの滝は石炭岩を含む青緑色の水でアメリカ大自然の神秘です。さらに、ハバスパイには、4つの滝~ナバホ滝、ハバス滝、ムーニー滝。ビーバー滝があります。
ハバスーパイ族
距離:片道12.8km所要時間:下り約3~4時間、上り約4~6時間ヒルトップからの行き方はトレイルを歩くだけではなく、馬やヘリコプターを利用して村まで行くこともできます。
ちなみにトレイルを歩くと片道4~5時間のところ馬で同じ道を行くと3時間。
ヘリコプターは4分で着きます。グランドキャニオンのサウスリムのビレッジから55km離れたハバスパイ族居留地区にあり、秘境の地でヘリコプターでも片道20分掛る。
ハバス・キャニオンには、約600人のハバスパイ族の村スパイ・ビレッジがあります、元々グランドキャニオンのサウスリムのインディアン・ガーデンに住んでいましたが、グランドキャニオンが国立公園になる時追い出された部族です。
ハバスパイ族はこの地に800年以上も済み続けている。村を流れるハバスクリークがあり、現在ハバスパイ族の居住区は748k㎡ある。
1882年にアメリカ合衆国政府ははハバスパイ族の土地を2.1k㎡に制限したが1993年後の1975年に居住区は拡大されている。
村の中心地にはスーパーが1軒、スーパーの向かいにはカフェが1軒、他には郵便局、学校、教会、観光案内所があります。
村の学校は中学校までで高校からはアメリカ政府の援助があり、アメリカの学校に進学出来る。
大学も援助があるが、高校を卒業後は村に戻ってくる若者が多いそう。
バランスロックの岩が村の中心から見え、この岩はワイカーリーバと名付けられている。
これが崩れたらハバスパイ族はこの地を去る時と言い伝えがあります。