ルート66アメリカ横断 大全集 ルート66写真家 Ken Kanazawaが徹底解説、ルート66の全てがここにある

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アル・カポネと禁酒法とルート66

アルカポネ

アルカポネ

アル・カポネと禁酒法とルート66
アメリカの移民問題や禁酒法が生んだ、欲望で民衆を魅了したアンチヒーローの時代にアメリカ大陸横断ルート66が誕生した。

アル・カポネ Al Capone
1899年1月17日 ~1947年1月25日生まれ。世界的に有名なアメリカのギャング。禁酒法時代に、シカゴで高級ホテルを住まい兼事務所にしてそこから組織を指揮し、密造酒製造・販売、売春業、賭博業をして組織を拡大し、犯罪組織を統合近代化していった。

身長は179cm、当時としては大柄であった。顔に傷があり「スカーフェイス」というニックネームがあった。しかし、本人はこの呼び名を嫌っていた為、本人の前で呼ぶ者はいなかった。

父はガブリエーレ・カポネ、母はテレジーナ・カポネ。その四男として生まれたのがアルフォンス・カポネ、通称アル・カポネ。

父は理容師として、週に当時の金額で約2万3000円稼ぎなんとか生活していた。移民してきた時に抱いていたアメリカンドリームなんてものは存在しない、現実はそうだった。多くの移民たちとりわけ、イタリア系移民は皆そうだった。

17~18世紀にやって来たイギリスなどからの移民が支配層。19世紀中頃、アイルランドなど西欧からの移民が中間層。最後のイタリアなど南欧、東欧は最下層という構造で、

ルート66

Route66

19世紀末から20世紀初頭にやって来たのが、カポネ一家のようなイタリア系移民。彼らは新移民と呼ばれ邪魔者扱いされ、差別や偏見がカポネの原点にある。

当時のシカゴは、新たな利権を求めてやってきたイタリア系移民が多く住み、彼らの商売は、賭博、売春、闇酒ビジネスが関連が多かった。

カナダの近い環境があり、カナダから大量のウィスキーが密輸されていた。もちろんこれは、世紀の悪法と名高い禁酒法1920年が影響している。

禁酒法とは、飲用のための酒の製造・販売・輸送を禁止した法律で、闇酒場が横行し、ギャング間で競争が激化していた。ビルをまるごと1つ買い取り、1階が酒場、2階が馬券場、3階が賭博場、4階が売春宿という一大興行闇施設で荒稼ぎした。

抜け目のない買収工作で身の回りの安全を確保した。警察はもちろんのこと政治家と癒着し、さらに選挙を操作し、自分のために有利な議員を選出した。

ルート66

ルート66

マスコミ対策にも余念がなく、新聞記者がカポネの暴露書けば、まずは手下が脅し、それでも屈しなければ警察にカポネが乗り込み、記者に金を渡し買収する。

それにも屈しなければ、新聞社を丸ごと買い取ったというエピソードもある。

カポネは、民衆に慕われていた。理由は利益を独り占めしていなかったからだ。例えば、一般家庭のガレージを酒の倉庫にして、一般人にもビジネスのチャンスを与え、儲けさせていた。

このように、人々の欲望も巧みに利用していた。カポネは26歳にして、現在の価値で約年商約1350億円。

禁酒法
1920年代の初頭にはいくつかの州で、個別に禁酒法は施行されていたが、アメリカにはモルモン教やクエーカー教など、宗教の戒律で飲酒を禁じ元々禁酒する風土は存在していた。

婦人たちの権利が広がる中、婦人運動家たちはアルコール依存症の人の6分の1は女性がなっていると禁酒法の制定を勧めました。又アルコール飲料が労働意欲をなくし、経済損失にもつながるとした。

戦争中から戦争直後という事もあり、穀物を酒に回す余力がなかったという国内情勢や、ビールを作っていたのが敵国ドイツだったという事も禁酒法の制定に拍車をかけた。

元々アメリカには禁酒する宗派があった事や、女性運動家達のヒステリックな禁酒運動、アルコールの有害性が流布された事、打倒ドイツの運動もあった事が禁酒法の制定につながった。

禁酒法は全くのザル法で、酒の製造業者の従業員は逮捕されてもすぐに釈放されるといういい加減なもので、多くの市民は隠れて本物の酒を自宅で飲み、又会員制の闇のバーで酒を飲んだりポケットに小瓶を隠して見えないところで開けて飲んでいた。

アル・カポネ

Al Capone

酒の販売業者は公には酒を作って販売を禁止され、酒の製造業者は医療目的と称して病院に酒を売っていた。表向きは病気のふりをして、医師に病名や処方箋を書いてもらい、「薬」という名目で酒を購入して飲んだりしていた。

さらには、密造酒をこっそり製造して闇ルートで販売し、粗悪なアルコールを使用し、1500人近くがその酒を飲んで死亡した。

結果として、酒の収入が闇から闇に流れたた為、ギャンググループに酒で得た収入が流れ、その収入をめぐってギャング同士の抗争にまで発展した。

シカゴでは、アル・カポネがギャンググループのボスとしてギャンググループやカジノ、バー、売春をあっせんして多額の利益を得、その利益をシカゴ市に納税したり、さらには多額の利益を使って市の公務員や警察、裁判所までアルカポネに買収されていた。

当時のFBI長官エドガー・フーバーはこのような事態を改善する為に、エリオット・ネスなどの捜査官を起用し FBIがギャンググループの掃討作戦をした。

シカゴ市が汚職でギャンググループを見逃していた為、結果的にはアル・カポネを脱税と5000件にも上る禁酒法違反で逮捕した。

最終的には、国民からの批判があった事と、先ほど挙げたヤミ組織にも酒の利益が流れた事が問題になった為、1933年にはついにこの法律は廃止された。

アルカトラズ島  Alcatraz Island
カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内、サンフランシスコ市から2.4kmの沖合いにある小島である。元々は灯台、軍事要塞、軍事監獄の使用されていたが、1963年まで連邦刑務所として使われ、ザ・ロック、監獄島とも呼ばれた。

アルカトラズ島

アルカトラズ島

アルカトラズ刑務所のアル・カポネ
1932年8月22日にアルカトラズ刑務所に到着し、囚人番号は#Az-85号が付けられた。刑務所の中では風呂場の掃除係として刑に服しており、囚人からは、モップを持ったイタリア野郎と軽視されていた。

刑務所所内での態度はまじめで、週末には囚人仲間と演奏等をして楽しんでいたが、若年時に感染した梅毒が悪化し始める。

1936年に囚人によるストライキがあったがアルは参加しなかった。このことで他の囚人から妻と子を殺してやるなどの脅しを受けた。すると、アルは独房で毛布を頭からかぶり泣いていたという。

この子供じみた行動も梅毒による痴呆症状だが、看守や囚人たちはそれと知らないので、長い刑務所暮らしで頭がおかしくなったのだろうと思っていた。

その後、アルの梅毒はますます悪化し、心身は衰弱していった。1938年の検査で初めて梅毒が発覚し、刑務所の医師は治療を試みマラリアを接種したが、殆ど効果はなかったと言う。

1939年1月にロサンゼルス近くの連邦矯正施設に移送され、そこで残りの刑期の1年近くを過ごす。

1939年11月16日、アルは釈放されたが、アルはクック郡刑務所に入るときの自信に満ちあふれた人物とは別人であった。

アル・カポネ

Al Capone

出所後のアル・カポネ
アルはボルチモアのユニオン記念病院で、梅毒の治療を受け、4ヶ月の治療の後、アルと家族はフロリダのパームアイランド島にある家で生活する。

1945年、アルは梅毒治療として、民間人で初めてペニシリンを投与されたが、病気が進行しすぎていた為効果はなかった。

1947年1月25日土曜日の東部標準時午前7時25分、アルは脳卒中に伴う肺炎により死亡した。出所してから死亡するまで、かつて牛耳ったシカゴへは戻ることはなかった。

アルは土曜日に死亡したので、各紙の日曜日版には大きく報じられた。ニューヨーク・タイムズはこのことを「悪夢の終わり」と伝えた。

1947年2月4日に行われた葬儀の会葬者の中には、かつて「アルの側近」だったジェイク・グージックや、後に「シカゴの大物ボス」になるマレー・ハンフリーズの姿もあった。アルが死んだ後、シカゴ暗黒街のボスは、フランク・ニティ、ポール・リッカ、トニー・アッカルド、サム・ジアンカーナ、サム・バッタグリアと引き継がれていく。


Alcatraz Island
Pier 33, B201 Fort Mason, San Francisco, CA 94122

3月30日は マフィアの日
1282年フランス支配下のシチリア  (現在もイタリア領ではありますがイタリアには5つある特別自治州の一つでシチリア自治州と言う扱いです) でフランス人の蛮行に対抗した「シチリアの晩鐘 (ばんしょう)事件という暴動がありました。

この暴動の合い言葉が「 Morte alla Francia anela 」訳 全てのフランス人に死を、これはイタリアの叫び でこの各単語の頭文字を並べると ”マフィア Mafia と成り、これがマフィアの名前の由来。

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